この世はいつでもディストピア

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平成生まれの原風景 ~「中途半端な都会」という故郷~

こんにちは、カラマゾフです。

 

令和を迎え、日本人にとって新しい時代が始まりました。新元号だからと言って現実が大きく変わるわけではないのですが、それでも心理的な時間の区切りがついたことは大なり小なり影響をもたらしてきます。

 

生前退位の上にGW中の改元ということもあり、レジャーと結びついた正月のようなお祭り騒ぎは、独特の興奮をもたらしました。また、時代の変わり目ということもあり、過去を振り返る機会も多かったのではないでしょうか。

 

改元から日がたつごとに、平成を振り返る動きもひと段落してきました。平成前半生まれの私にとって、懐かしい日々を振り返る機会が得られたのは幸運でした。

 

そんな中、平成という時代に生まれた人間にとっての「原風景・故郷」というものが、一般的にイメージされる「原風景・故郷」とは異なるのではないかという疑問を持つようになりました。今回は、そのことについて書いていきます。

 

多くの平成世代にとっての本当の故郷は田園風景ではなく、灰色に覆われた中途半端な都会ではないのかという話です。

 

 

「原風景・ふるさと」=田舎の田園風景?

多くの日本人が「原風景・ふるさと」と聞いて思い浮かべるのは、田舎の田園風景ではないでしょうか。

 

都会生まれの人間であろうとも、夏休みの祖父母宅への帰省や、「ぼくのなつやすみ」「菊次郎の夏」といったような田舎を描いた作品を通じて、田舎の田園風景への郷愁が心に刷り込まれています。また、テレビなどで「故郷」がテーマとして描かれるとき、大抵は田舎の田園風景が故郷のイメージとして登場します。

 

童謡の「故郷(ふるさと)」で描かれるウサギを追った山、「赤とんぼ」で描かれる夕焼け小焼け、こういったイメージこそが日本人が共有している「原風景・故郷」の一般像でしょう。

 

しかし、「田舎で育ちました」という人は徐々に少なくなっています。都市化が進み、郊外も開発されてきた日本において、田舎で幼少期を過ごした人の割合は減ってきているのです。

 

「故郷=田園風景」という一般的なイメージは、昭和の時代では多くの人にとって実体験に基づいたものだったのかもしれません。しかし、今はもう「故郷=田園風景」は必ずしも実体験に基づいてはいないのです。

 

それでも多くの人にとって、「故郷=田園風景」は固定化された図式です。メディアが描く故郷像は相変わらず田園風景ですし、都会生まれの人もそのことに特に疑問は抱きません。何故こんな奇妙なことが起きているのかというと、「故郷=田園風景」という「常識」が強すぎたことが原因だと私は考えています。

 

「故郷」という言葉にあまりに強く「田園風景」が紐づけられていたために、「故郷」という言葉のイメージが変質してしまったのです。その結果、都会で育った人間であっても、田舎の田園風景が「故郷」だと錯覚をするようになったのでしょう。

 

言い換えれば、昭和時代には確固たる現実だった「故郷=田園風景」というイメージは、そのイメージがあまりにも強固だったために、平成時代を経るうちにいつの間にか「仮想現実」へと変質していったのです。

 

では、平成に生まれ都市部で育った人間にとっての「仮想現実ではない、本当の故郷」とはいったい何なのでしょう。私はそれは「中途半端な都会」だと考えています。

 

「中途半端な都会」という故郷

昭和の後半から、地方都市や郊外であっても開発がすすめられ、田園風景は都市化していきました。平成はその都市化が一層進展した時代でした。日本各地にコンクリートジャングルが広がった時代です。

 

コンクリートジャングルというと、一般的には東京のような大都市の摩天楼が思い浮かべられます。

 

しかし、地方都市であっても、アスファルトに舗装され、マンションや雑居ビルが並び、とにかく人工的な構造物があたり一面を覆っているのであれば、それはまぎれもないコンクリートジャングルなのではないでしょうか。摩天楼でなくとも、それは確かにコンクリートでできたジャングルなのですから。

 

そして中途半端な都会は、コンクリートジャングルとして人々の生活を包み込みます。

 

平成生まれの大半は、そんなコンクリートジャングルである「中途半端な都会」で生まれ育っています。地方出身者であっても、都市部で育った平成生まれは、田園風景に囲まれて育ったわけではありません。田園風景と比べるとなんとも貧弱な故郷かもしれませんが、「中途半端な都会」はまぎれもない故郷なのです。

 

「中途半端な都会」の色彩と匂い

「中途半端な都会」という故郷がどんなものか、私なりに考えてみます。

 

まず、大きな特徴となるのは「色彩」です。都市部の風景は、白や灰色、黒といったビルやアスファルトの無彩色が基調となり、そこにレンガの茶色や、公園や植え込みなどの申し訳程度の緑色が混ざっています。

 

そしてその色調は青空とは相性がよくありません。青空と無彩色のビルの組み合わせは映えるのですが、組み合わせが鮮やかすぎるのです。曇り空の方がビルとは似合います。曇り空に灰色のビルが溶け込むような無彩色。中途半端な都会ではこれが一般的な光景だと思います。

 

次に、いたる場所に人間の匂いと欲望が染みついています。コンクリートジャングルでもある「中途半端な都会」は人工物でおおわれているので、人間の匂いが染みついているのは当然なのですが、ポイ捨てされた空き缶やタバコの吸い殻、酔っ払いの吐しゃ物に果ては道端に落ちてる使用済みコンドームといったものは、むせかえる程の欲望を発散しています。

 

しかし、人工的な空間といっても、自然が皆無なわけではありません。いやむしろ、人工物に囲まれているからこそ、自然のたくましさが際立つのです。

 

アスファルトの割れ目に生えた雑草や、都会でしぶとく生きるカラス、頑丈なコンクリートを腐食させる雨水に、汚い川に住み着いた魚は、人間が自然を決して屈服させられないことを如実に教えてくれます。どれほど人間が自然を征服しようとしても、自然は征服者の懐に忍び込んでくるのです。

 

陰気な無彩色に、人間の匂いと欲望が染みつき、自然の強さが見え隠れする光景、これこそが故郷としての中途半端な都会だと思うのです。

 

田舎の田園風景と比べると貧弱かもしれません。しかし、そう大差はないと思うのです。無彩色の光景は細かく見ると変化に富んでいます。ビルの形や、電線と電柱の絡まり具合や、アスファルトの塗装のムラには意外なほどの多様性があります。田舎の用水路や田園が織りなす個性がコンクリートが織りなす個性に変わっただけです。

 

それ以外の点に関しても、田舎の道端に落ちているタヌキの死骸が、路地裏にぶちまけられた酔っ払いの吐しゃ物に変わっただけだと思うのです。肥壺が使用済みコンドームに変わっただけです。

 

では、そんな「故郷としての中途半端な都会」は、まったく無視されているのでしょうか。そうではありません。「浅野いにお」という漫画家の作品の中で、鮮やかに描かれています。

 

浅野いにお」が描く故郷としての中途半端な都会

浅野いにおという名前を聞いた事がない人もいるかもしれませんが、「ソラニン」という映画の原作漫画を描いた人だと言えばピンとくるかもしれません。そのほかにも、「おやすみプンプン」などが代表作です。

 

メンヘラご用達漫画と揶揄されることもありますが、感性にするどく刺さるからこそメンヘラに好まれるのでしょう。

 

彼の作品の中では、「中途半端な都会」の雰囲気が非常にリアルに描かれています。遠くに見える山々を背景に立ち並ぶマンション、コンクリートが腐食した汚い路地裏、雑草が茂る線路わき、マンションの薄暗い踊り場、そこで蠢く人々などです。

 

こういった中途半端な都会の光景は、平成時代に都市部で生まれ育った人間にとっての故郷であり、原風景なのだと思います。

 

そして実際に、浅野いにおの作品は若い世代の心をがっちりと捉えています。平成生まれの感性に刺さる何かがあるからこそ、ここまで支持されるのでしょう。その理由の一つに、平成生まれにとっての本当の故郷である「中途半端な都会」を鮮やかに描いていることがあげられると、私は考えています。

 

「故郷」は時代と共に変わる

昭和時代の多くの人にとっての故郷は、田舎の田園風景でした。田舎の中学高校を卒業して、都会に出てきて働いていた昭和から平成前半の現役世代にとって、田園風景は紛れもない原風景だったのでしょう。

 

しかし、平成後半から令和にかけての現役世代にとっては、田園風景は本当の意味での故郷ではなくなってきます。故郷が変わってきているのです。

 

平成の前半には、「故郷」はまだまだ田園風景でした。平成13年(西暦2001年)に公開された、『クレヨンしんちゃん 嵐を呼ぶ モーレツ!オトナ帝国の逆襲』では、主人公しんのすけの父親であるひろしが人生を回想するシーンがありますが、その中で田舎の田園風景が出てきます。

 

ひろしにとって、田園風景は実際に幼少期を過ごした故郷です。しかし、ひろしの子供であるしんのすけにとって、田園風景は故郷ではありません。しんのすけにとっての故郷は「中途半端な都会」である春日部です。そして、映画公開時の2001年にしんのすけが5歳だったとすると、2019年の現在ではしんのすけは23歳です。

 

クレヨンしんちゃん』の連載が開始されたのが1990年ですから、映画公開時ではなく連載開始時を起点に考えると、しんのすけは現在34歳の大人になります。その場合しんのすけは昭和生まれということになりますが、1985年(昭和60年)生まれのしんのすけは、ほとんど平成世代といって差し支えないでしょう。

 

私は平成の前半生まれですが、平成生まれというか平成世代にとっての故郷は、田園風景が広がる田舎よりも、コンクリートに覆われた中途半端な都会の方がしっくりくるのです。田園風景に郷愁を覚えることはありますが、それはメディアや宣伝によって刷り込まれた、作り物の郷愁といった感がぬぐえません。

 

「本当の故郷」は時代と共に変わって行くのです。そして、平成に生まれ育った世代は、「本当の故郷」である「中途半端な都会」に得も言われぬ郷愁を覚えるのでしょうし、だからこそ浅野いにおが支持されるのでしょう。

 

令和の時代に生まれ育つ人たちは、どんな「故郷」を持つのでしょうか。

 

 

 

最後まで読んでいただき、ありがとうございました。カラマゾフでした。

 

世界の終わりと夜明け前 (BIG SPIRITS COMICS SPECIAL)

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読書量を冊数で測るおかしさ~冊数はあまり関係ない~

こんにちは、カラマゾフです。

 

自己啓発本や、成功哲学の本を読んでいると、まず、「本を読め」という主張にぶつかります。実際に読書が年収を押し上げるというデータもあり、読書が成功への道のりに欠かせないものであることは疑いようがない事実でしょう。

 

そして、ブログ記事でも読書について言及しているものは多くあります。現に私も、読書についての記事を書いたことがあります。

karamazov012.hatenablog.com

karamazov012.hatenablog.com

 

そのような、読書についてのブログ記事でよくあるのが「月に〇〇冊読破する方法」といったものでしょう。速読や各種読書法を活用して、1ヶ月の間に大量に読書する方法が書かれています。

 

しかし、そのような「冊数で読書量を測る」というのは、ある意味でおかしいことなのではないかと私は思っています。

 

実際に読書に没頭するとなると、最初から最後まで精読する本と、部分部分を飛ばし読みする本とが出てくるため、それらを同じ「一冊」と数えていいのかどうかという問題が出てきます。

 

また、理解しやすい自己啓発書と、難解な人文科学の本が同じ一冊だからと言って、それらを同列に扱うことはできないでしょう。内容の深さとボリュームが違います。

 

今回は、そのことについて書いてみます。

 

読書に慣れるほど、部分読みが当たり前になっていく

読書に慣れていくと、部分読みが当たり前になってきます。部分読みとは、本の中で重要な箇所や興味のある個所だけに目を通し、最初から最後までは通読しないという読み方です。

 

最初から最後まで読まないのであれば、本を買った意味がないと思うかもしれません。しかし、そうではないのです。本を読む目的は「情報を得る」という事が第一です。自分にとって有用な情報が手に入れば、その読書は成功したと言っても過言ではありません。

 

そのため、読書に慣れ、「読み方を知る」うちに、部分読みで必要な情報のみを得るのが当たり前になっていきます。部分読みをしていると、最初から最後まで本を読み通すわけではありません。

 

また、本によっては最初から最後まで通読する場合もあります。しかし、その冊数は限られているので、通読した本のみを読書数とすれば、途端に読書数は落ちてしまいます。

 

そのため「何冊を読破した」ということを、正確にいうことができなくなってくるのです。

 

本の「重さ」は、それぞれで全然違う

ある程度読書に慣れてくると、「この本は重いな」とか、逆に「この本は軽いな」というのがわかるようになってきます。物理的な重量ではなく、本の内容の重さのことです。

 

決して重い方がいいというわけではありません。しかし、重い本はやはり読むのに時間がかかり、一冊からくみ取れる内容も多くのものがあります。逆に、軽い本は読むのに時間はかかりませんが、その分娯楽としてよくできていたり、ハウツーを実践に移す際にすぐに実行できたりするといった長所があります。

 

「重い本」の中にもいろいろとありますが、小説で言ったら三島由紀夫の作品でしょう。彼の文章は非常に緊密で、比喩もちりばめられています。一言一句を鮮明にイメージしながらゆっくり読まなければ、真に三島由紀夫の文章を味わうことはできないでしょう。

 

また、実用書などの中では「サピエンス全史」のような学術的な要素を含む本は比較的重い気がします。実際にサピエンス全史は非常に濃い内容で、様々な周辺知識を同時に取り込むことができますが、その分じっくりと読み進める必要があります。

 

逆に、軽い本の例としては、池井戸潤などが書くミステリー小説などがあげられるでしょう。ミステリーは話の筋が重要なので、文章を重くしては読者が疲れてしまいます。そのため、軽くすらすらと読める本が多いのでしょう。

 

また、実用書などのなかで軽い本としては、「お金2.0」などのビジネス書があげられるでしょう。そのような本は、読み通しやすく、その分知識としてのアップデートが容易で、すぐに実践に移すことができるという長所があります。

 

「重い本」と「軽い本」の間に優劣の差はありません。あくまで用途が違うだけです。しかし、それらを「同じ一冊」とひとくくりにすることはできないでしょう。「サピエンス全史」と、「お金2.0」の両方をよんでみればわかりますが、この二冊の本を「同じ一冊」とカウントすることはできません。

 

「質と量」のバランスをとることが大事

読書では、いくら冊数を積み上げても、「軽い本」ばかりでは、なかなか実りが得られることはないでしょう。「軽い本」は、実践には役立ちますが、質より量が優先されているきらいがあり、「深い知識」を得るには向いていません。

 

逆に、「重い本」をじっくりと読み進めるだけなのも実践がおろそかになりかねません。「重い本」は質はいいのですが、量が足りなくなることもあります。それに、実践がおろそかになり、頭でっかちになりかねません。

 

「軽い本」で量を確保して、「重い本」で質を確保するのが、効率のいい読書方だと私は考えています。そして、その両者の本を同一の「一冊」とカウントすることはできません。

 

質と量のバランスをとりつつ、自分にとって有用な情報を手に入れ、血肉に変えていくのが「良い読書」といえるのではないでしょうか。そしてそこでは「読書数・読破した冊数」は、さして重要ではなくなるのです。

 

 

最後まで読んでいただき、ありがとうございました。カラマゾフでした。

 

 

レバレッジ・リーディング

レバレッジ・リーディング

 

宗教やロジックで人は残酷になり、そのお陰で生きているのではないか

こんにちは、カラマゾフです。

 

人が残酷になるのは、「自分が正義だと確信しているとき」だということは、ツイッターなどでよくバズる話題です。実際に、自分が正義だと思い込んだ人間が「人を叩く」ときの恐ろしさは凄まじいものがあります。

 

バカな動画をネット上にアップした高校生を叩くネット民の行動は、まさに「バカな高校生という悪を叩く自分たちは正義である」という論理に基づいています。

 

また、「自分が正義である」と確信するまではなくとも、「自分の行為は正当である」と確信している人間も残酷な行動をとります。

 

今回は、そのことについて書いていきます。

 

「人の痛みに鈍感な人」を作る方法

よほどのサイコパスでない限り、人間は人間相手に暴力をふるう(痛みを与える)ことをためらってしまう生き物です。戦場での歩兵の発砲率の低さがそれを裏付けています。同胞である人間を殺傷することは、人間の精神に大きなダメージを与えます。そのため、普通の人間はだれかを痛めつける事をためらうのです。

www.tais.ac.jp

 

しかし、そんな「誰かを痛めつけるのをためらう」人間を、簡単に「誰かの痛みに鈍感な人間」に変えてしまう方法があります。宗教やロジックを使うのです。

 

下記のロジックを叩きこめば、「人の痛みに鈍感な人間」を作ることができます。

・人を傷つけるのは罪深い

・しかし、神を信じないのはもっと罪深い

・ゆえに、神を信じない者を『救済』することは善行である。その『救済』は暴力的な手段であっても問題はない

 

このようなロジックを叩きこまれた人間は、異教徒の痛みに対して鈍感になります。なぜなら、彼にとって異教徒を痛めることは善行だからです。実際に、オウム真理教が宗教的なロジックを使って、『普通の人』を犯罪者に変えてしまった過去があります。

 

適切にロジックを活用すれば、人間を「理詰めで洗脳」することができます。理詰めの洗脳は溶けにくいです。また、その理屈に「善行」を埋め込むことができれば、洗脳された人間の自発的な行動が期待できるようになります。

 

異教徒を「痛めつける」ことは彼らへの救済であり善行であると信じた狂信者は、より自発的に異教徒を「痛めつける」ことになるでしょう。

 

消費者や労働者に対して残酷な「資本主義者」たち

さて、人を痛めつけることに鈍感なのは狂信者だけではありません。一般に起業家や経営者などの、資本主義の論理の最先端で生きている人たち、いわば「資本主義者」とでもいえる人たちも、ある意味では人を痛めつけることに対して鈍感です。

 

彼らは、消費者を「消費という形で搾取する」ということに対してきわめて鈍感です。何故なら、

・消費とは快感である

・快感とは幸福である

・ゆえに、消費は幸福であり、より多く消費するほど、人はより幸福になれる

という理屈を「資本主義者」は信じているがゆえに、消費者を「消費という形で搾取する」ことに対してきわめて鈍感になれるのです。

 

もしくは、度を越えた消費は、「自分の財力を理解できていない消費者が悪い」という事になります。その「度を越えた消費」が、資本主義者側の「度を越えた宣伝」によって引き起こされたものであってもです。

 

また、資本主義者たちは、労働者の給料を削ることに対しても鈍感です。労働者の給料が削られ生活が厳しくなろうと、資本主義者たちはそのことに対して特に罪悪感を抱きません。

 

・適切な経済活動は社会に富を生み出す。より多くの富を生み出すことは善行である。

・経済活動には「費用」と「収益」の二つの側面があり、費用は最小限に、収益は最大限にするべきである。その差額が「利益」であり、社会に新たに生み出された富である。

・労働者への支払いは「費用」であり、それは最小に抑えられるべきものである。

 

ということで、労働者への支払いは最小限に切り詰められます。何故なら労働者へとかける費用が少なくなればなるほど「利益」は増大し、新たに生み出された「富」は増大するからです。富が増大すればするほどそれは「善行」なので、労働者への支払いを切り詰めることはむしろ歓迎すべきことになってしまうのです。

 

もちろん、消費や富の増大によって消費者や労働者も恩恵を受けます。そこには「搾取構造」と「恩恵を与える構造」の二つが潜んでいて、簡単にどちらか一方だと割り切れる話ではないのです。しかし、搾取構造が潜んでいうことは事実なのです。

 

経営者などの「資本主義者」は、このようにして、自らの行動を正当化しています。しかし、このような正当化を行って、残酷な行動から目を背けているのは経営者だけではありません。一般の市民も、ロジックを使って自らを正当化しているのです。

 

発展途上国の労働者や、食肉用の動物に対して残酷な「一般市民」たち

先ほど示したように、一般市民は、消費や労働の形で経営者たちに搾取されいます。しかし、市民たちはその消費を通して、発展途上国の低賃金労働者や、食肉加工される動物たちを搾取しているのです。

 

私のような一般市民は

 

・金を使って物品を購入するのは、正当な行為である

 

というロジックを信じています。それは信じるというより、肌にしみ込んだ「感覚」と言っても差し支えないでしょう。

 

そして、この「物品購入は正当な行為である」というロジックは、物品購入までの過程、つまり生産段階への無関心につながってきます。物品購入が正当な行為だとされれば、その過程の生産段階も丸ごと正当化されてしまうのです。

 

その「丸ごと正当化された生産段階」で、どれほど残酷な搾取が行われていようが、市民はそれに対して無関心になります。

 

ファストファッションやチョコレートを購入するときに、それら製品の背後にいる「低賃金で働かされている発展途上国の労働者」まで思いをはせることはないでしょう。また、スーパーで並ぶ牛肉を購入するときに、「屠殺される牛の苦しみ」まで思いをはせることもないでしょう。

 

それらの痛みはなかったことにされ、人々はなんのためらいもなくチョコレートや牛肉を購入します。その過程で、途上国の労働者や牛を搾取していることに対して人々は無関心になります。

 

何故なら、「カネを払って物品を購入することは、正当な行為である」からです。正当な行為である以上、背後にある痛みに気付く必要はないのです。

 

「ロジックを使って残酷」になるのは、生きるためではないか?

ということで、人間がいかに残酷なのかを書いてみました。中二病臭いと思われた方もいるかもしれません。しかし、生物とは根本的に、残酷にならなければ生きていけない存在なのではないでしょうか。

 

karamazov012.hatenablog.com

 

人間というか、動物は「ただ生きる」ためだけにも他の生物を殺す必要がある存在です。当然、食事をするということは殺生ですし、免疫機構によって殺される細菌群だってバカにならない数でしょう。

 

また、人間社会だって一皮むけばえげつない競争社会です。発展が遅れた国家は容赦なく経済的、軍事的に他国に蹂躙されてしまいます。

 

しかし、人間はある致命的な欠点を抱えています。「優しい」という欠点です。他の個体を殺せないほどに「優しい」生き物である人間は、弱肉強食の世界には向いていないのです。優しいだけでは他の個体や生物に付け込まれるだけになってしまいます。

 

そこで「ロジック・宗教」が登場するのでしょう。ロジックや宗教で「暴力・搾取を正当化する」ことにより、人間の「優しさ」に歯止めをかけることができます。そうすることで、他の生物を殺して食事をしたり、他の社会に抗争を仕掛けて自分達の共同体を守ることができるのでしょう。

 

というか、「優しさ」は、進化の比較的後の段階にできた新しい機能です。脳が発達することで初めて「優しさ」を手に入れることができます。人間はその「優しさ」を使うことで、互いに協力し、種族として生き残ることができたのでしょう。

 

しかし、「優しさ」は、ときどき足かせになります。その足かせを外し、残酷な存在という「生命本来のあり方」に回帰させるのが、「宗教やロジック」の機能うちの一つなのではないでしょうか。

 

中二病臭い話に最後まで付き合っていただき、ありがとうございました。カラマゾフでした。

 

ゼミナール ゲーム理論入門

ゼミナール ゲーム理論入門

 

一部の教育ママに感じる闇と、不幸の再生産

こんにちは、カラマゾフです。今は二月の半ばで、ちょうど受験シーズンですね。

 

受験といえば、何かと業の深いテーマだったりします。年端のいかない子供にひたすら勉強をさせ、遊びも何もかも我慢をするイメージです。

 

とはいっても、高校受験や大学受験ほどになると、受験生自身も「この受験勉強で自分の人生が大きく変わる」ということを理解していて、能動的に勉強するのが結構当たり前です。

 

しかし、小学生に関してはそうではないでしょう。勉強が将来どのような形で役に立つのかわからないまま、勉強に没頭することになります。いや、正確にいうと「没頭させられる」と言ったところでしょうか。

 

両親の金銭的援助と、塾の伝統的なノウハウの元、一部の小学生は勉強に没頭します。そんな小学生と切っても切れないのが「教育ママ」です。

 

「教育ママ」は、子供の将来を願って、わが子に勉強を仕込みます。しかし、そんな「教育ママ」の一部には、どうしようもない「闇」を感じてしまう人もいるのです。端的に言うと、「自分が勉強が苦手だったから、子供にどう勉強を教えればいいのかわからない」タイプの教育ママです。

 

今回は、そんな教育ママの闇について書いてみます。

 

 

「自分が勉強で苦労したから、子供は徹底的に勉強させる」タイプの教育ママ

教育ママがわが子に勉強をさせる大きな理由に、「わが子に華々しいエリート人生を歩んでほしい」というのがあるでしょう。しかし、その動機の裏には、さまざまな事情があります。

 

例えば、教育ママ自身が有名私大卒などのエリートだった場合、「自分と同じような人生を歩んでほしい」というのが根底にあります。

 

一方で「自分は学生時代勉強でつまずいて苦労したから、わが子には同じ苦労をしてほしくない。小学生の早い段階のうちから勉強をさせれば、将来苦労することはないだろう」という考え方の教育ママも存在します。

 

そして、そのタイプの「自分は勉強で苦労したから、子供は徹底的に勉強させる」タイプの教育ママに、ある種の「闇の深さ」を感じてしまうことがあるのです。

 

彼女たちは、わが子に学力を仕込むために必死です。自分が味わってきた悔しさや苦労を子供に背負わせたくないためです。その思い入れはすさまじいものがあります。しかし、ある致命的な問題があるのです。

 

そのようなタイプの教育ママは、勉強の方法を知らないことが多いのです。自分が勉強で苦労したり、まともに勉強をしたことがなかったために、「効率的な勉強法」を知らないのです。

 

「効率的な勉強がわからない」ために、「非効率な勉強」をさせてしまう

「自分は勉強で苦労したから、わが子には徹底的に勉強させる」タイプの教育ママは、鬼気迫る勢いでわが子に勉強をさせます。しかし、彼女たち自身は勉強が苦手だったり、勉強をまともにしてこなかったタイプの人たちです。当然、「効率的な勉強法」が何なのかがわかっていません。

 

そのため、「わかりやすい方法」に飛びつくことになります。「字を徹底的に綺麗に書かせる」「ひたすら書き取りをさせる」「究極に整理された綺麗なノートを取らせる」などです。

 

これらの勉強法は非効率極まりないのですが、「勉強している感じ」はとても出やすい勉強法です。効率的な勉強方法がわかっていない彼女たちは、わが子にこのような「わかりやすいが、極めて非効率な勉強法」を押しつけがちなのです。

 

また、「勉強の方法がわかっていない」ことの弊害は、タイムマネジメントの面でも出てきます。

 

勉強を本気でやったことのある人ならわかると思いますが、人間の集中力には限界があります。その限界を超えて勉強に励むと、効率が落ちるどころか、やる気がそがれたり、心身がつかれはてたりしてしまい、勉強の効率に大きな悪影響を及ぼします。

 

しかし、「勉強の方法がわかっていないタイプの教育ママ」は、とにかく時間をかければかけるほど成果が出ると勘違いしています。そのため、わが子に集中力の限界を超える勉強時間を課すことになるのです。

 

そうなると子供は、非効率な勉強法で、無理な長時間を机にかじりつかされることになります。勉強の成果が出るはずはありません。成績は伸びないどころか落ちていきます。

 

成績が落ちたことで、教育ママは焦ります。そして、「もっと勉強させれば、もっと時間をかければ、わが子の成績は伸びるだろう」という発想になり、わが子に更に非効率で長時間の勉強を強いることになります。完全に悪循環です。

 

こうして、母子は悪循環のドツボにはまっていくことになります。

 

このタイプの悲劇は連鎖しかねない

この手の悲劇の恐ろしいところは、世代を超えて悲劇の再生産がされかねないことです。

 

「効率的な勉強法を知らない教育ママ」の下で育った子供は、当然学業成績が振るうことはありません。せいぜい地元の自称進学校から中堅私立大学にいければいい方でしょう。そして、その子供は、「自分は勉強が苦手だったから、人生で苦労した」という鬱屈した思いを抱えることになります。

 

そして、そのような子供が結婚し、わが子を持つ順番になると、「自分は勉強ができないために苦労したから、わが子には徹底的に勉強をさせて、自分とは違う輝かしい人生を送ってもらおう」と、考えるようになってしまいかねないのです。

 

しかし、そこでなされる勉強法は非効率なものになってしまいます。なぜなら、「効率的な勉強方法」を知らないためです。こうして、孫の代まで「勉強ができなかったための歪み」がリレーされていくことになります。

 

実際に、私の周囲でもそのような連鎖の中で苦しんでいるのだろうなという人は何人かいました。

 

そんな悲劇がこれ以上生まれないことを願っています。

 

最後まで読んでいただき、ありがとうございました。カラマゾフでした。

 

教育の効果: メタ分析による学力に影響を与える要因の効果の可視化

教育の効果: メタ分析による学力に影響を与える要因の効果の可視化

 

「面白くないタイプの陽キャ」について思う事

こんにちは、カラマゾフです。

 

スクールカーストというものは、意外なほどまで人生を大きく左右します。10代の時間を学校の中でどのように過ごしてきたかということは、人格に影響する重大な要素なのです。

 

地位が低かったら、卑屈になってしまう事があります。また、地位が高ければ、自信を持ったふるまいができるようになり、将来にわたっていい影響があったりします。

 

しかし、スクールカーストの中で地位が高かったために、「センス」が磨かれていない人がいるなあ、と感じる時もあります。今回はそのことについて書いていきます。

 

因みに、私はスクールカーストの中では中位~下位をさまよってきた典型的なキョロ充です。そのため、上位の人へのルサンチマン(恨み)があることも加味して読んでくださればと思います。

 

 

自信満々で面白くないことをいう一部の陽キャ

陽キャというか、目立つ人というのはたいてい面白い人です。彼らは磨かれた話術で笑いを提供してくれ、場をにぎやかにしてくれます。

 

そんな彼らは自信に満ちています。高いコミュニケーション能力で、華々しい学生生活を送ってきたからです。クラスメイトや部活の仲間にちやほやされたことで、自然と自信を持った態度が身についているのです。

 

しかし、そんな「陽キャ」の中にも一部、ものすごくつまらない人が存在するのも事実です。「おもんないタイプの陽キャ」は、自信満々でつまらないボケやギャグ、突っ込みを繰り出します。そして周囲はしらけかえるのですが、本人は自分がつまらないことを自覚することはありません。

 

さんざん場の空気を盛り下げるだけ盛り下げるのです。

 

そんなタイプの陽キャは大体、イケメンだったり運動神経が良かったりします。つまり、「コミュニケーション能力」がなくとも、スクールカーストで上位をキープできるだけの要素を持っているのです。

 

しかし、そのことが、「自分のつまらなさを自覚しない人間が生まれる」という、悲劇の元凶ともなってしまっているのです。

 

彼らは中高時代に「笑いを搾取」していたことに気付いていない

中学高校時代の、昼休みの時間を思い浮かべてください。黒板の前に立った二人の野球部員が漫才を披露しています。教室は笑い声に包まれ、非常にすがすがしい青春の一幕です。

 

しかし、本当にすがすがしいだけなのでしょうか。

 

野球部員の漫才は、冷静になって聞いてみたらクスリとも笑えないほどレベルが低い場合が大半です。内輪ネタや先生の物まねなどで何とか笑いを確保していますが、そのほかの「漫才としてのネタ」は大して面白くなかったりします。

 

しかし、そんな「冷静に考えれば面白くないネタ」でも、教室は笑いに包まれます。「野球部の権力」言い換えれば「スクールカーストの権力」が背後にあるためです。「野球部員が発したギャグには、とりあえず笑っておく」という空気はなかったでしょうか。

 

そんな風に「スクールカーストで笑いを搾取する構造」が、教室の中に潜んでいるのです。

 

生まれつきのコミュニケーション能力が高い人間が、スクールカースト関係なく笑いを取って、高い地位につくことはよくあります。しかし一方で、運動神経や顔面偏差値などで高い地位を獲得したが、コミュニケーション能力が低い人間も一定数存在します。

 

そのような「コミュニケーション能力は低いが、スクールカーストでの地位は高い」タイプの人間が、笑いを搾取するようになると、途端にしんどいことになります。

 

「面白くないタイプの陽キャ」は、「笑いを搾取している」ということに気付けません。そもそものコミュニケーション能力が低いために、自分がつまらない人間だということを自覚できないのです。

 

しかし、教室という特殊な空間では「笑いをとる(実際は搾取している)」ことができるため、彼らは自分のことを面白い人間だと勘違いしたまま、年を重ねてしまうのです。

 

「自分のつまらなさを自覚してない陽キャ」とはかかわらない方がいい

つまらない陽キャとは言っても、腐っても陽キャです。持ち前の積極性で、人間関係は割とにぎやかになります。そのため、彼らとかかわる機会はそこそこ多くなります。しかし、彼らとは深くかかわらない方がいいです。

 

まず、彼らは自分が「面白いことを言えない人間」ということを自覚していないのに、やたらと笑いを取りたがります。そのため、場は冷え込んでしまい、会話はつまらなくなります。

 

しかし、彼らは自分の面白さに根拠のない自信を持っているので、しらけたことを周囲のせいにします。その場合は、その場に居合わせた陰キャが犠牲になります。「お前が俺のギャグを拾わないせいでしらけた」と、彼らは本気で言ってきます。はっきりいって不快でしかありません。

 

また、笑いが取れないことに業を煮やして、弄りをかましてくることもよくあります。気遣いと面白さが両立している弄りならばいいのですが、コミュニケーション能力が低い彼らにそれは期待できません。

 

不快なうえに、何も面白くない弄りをかましてきます。そんなのに付き合うのは人生の損失ともいえるレベルです。彼らからは距離をとるのが正解でしょう。

 

 

そんな人がブログやツイッターで滑っているのを見ると、悲しくなるけどスッとする

話は転じて、ネット上の世界についてです。

 

ネット上の世界は、ある意味で平等で、ある意味でものすごく残酷です。面白い人は不細工だろうがニートだろうが犯罪者だろうが評価されます。一方で、つまらない人はエリートだろうが芸能人だろうが社長だろうが無視されます。

 

ごくまれに、そんなネット上の世界に「つまらなさを自覚していない陽キャ」が参入してくる時があります。特に、ツイッターやブログ、ユーチューブにそのような人は多い気がします。

 

彼らの作るコンテンツは見ていて痛々しいです。どこにも面白い要素がないのに、自信だけは満々です。しかし、コンテンツをいくらネット上にアップしても、他のユーザーが反応することはありません。

 

単純に面白くないからです。

 

その無反応というか、無視にさらされた彼らがだんだんと意気消沈していく様は、独特の悲哀を帯びています。しかし、スクールカーストの中で彼らの「クッソつまらない弄り」の被害を受け続けていた私のような陰気な人間にとって、彼らが意気消沈していく過程は、とても面白いコンテンツだったりするのです。

 

早い話が、ルサンチマンが一時的に解消される至福のひと時なのです。悲しい気分になると同時に、スッとしてしまうのです。

 

ただ、これ以上続けると陰気臭さが極まってしまうので、この辺で終わりにしておきます。

 

 

グチグチした内容に最後まで付き合っていただき、ありがとうございました。カラマゾフでした。

 

ウケる技術 (新潮文庫)

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夜型人間にとっての「朝活」という地獄

こんにちは、カラマゾフです。

 

私は典型的な夜型人間です。読書も勉強も夜にやるのがはかどります。また、寝る時間も常に後ろへ後ろへとずれていきます。

 

「気合を入れて早起きしろよ!」「朝を制する者が人生を制するのだ!」といったお説教をしてくれる人もいるかもしれませんが、話はそう単純ではありません。朝型なのか夜型なのかは遺伝子レベルの体質で決まっていて、気合でどうにかできるのもではないのです。

 

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おそらく、夜型には私の自閉症気質も関係しているのでしょう。まあ、そこは置いておいて、今回はそんな夜型人間が、朝活を実行した場合に起きることについて、書いていきます。

 

何とか起床できるが、何もできない朝

「朝活!!」ということで、午前六時に起床します。個人的には起床に際して特に困難はありません。「寝起きが異常にいい」という体質なため、眠気をこらえつつも何とか布団から抜け出すことができます。

 

そしてコーヒーを淹れて、パンをかじりつつ、熱さをこらえてグイっと飲み干せば、もう眠気はあらかた飛んでいます。こうしてみると、なんとも有効な朝の時間がスタートしたように思えます。しかし、ここからが地獄なのです。

 

さて、カフェインの力で覚醒したところで、勉強や読書に取り掛かります。勉強だったら英語、読書なら哲学入門の書籍などといったところです。朝のスッキリした頭であれば、英語だろうと哲学入門だろうとスイスイ読めるはずなのですが、そうではありません。

 

むしろ、頭に靄(もや)がかかったように、遅々として読めないのです。無理やり読み進めようとしても、内容の理解ができず、字面の上をすべるようにしか読めません。

 

黙読ではらちが明かないので、声に出して読んでみるのですが、それも上手くいきません。内容の理解がおろそかなまま、声だけが空虚に響きます。

 

「やっぱり、頭を使う前に体を動かそう!」となり、ランニングや筋トレなどをしてみようとしても、同じような困難が待ち構えています。体が錆びついたようになり、まるで動かないのです。

 

そして、動かない頭と体を持て余した私は、ふと、「朝の空気」を味わい始めることになります。

 

私は夜型人間のくせに「朝の空気」が好きです。あのひんやりと張り詰めた空気や、柔らかく差し込む朝日が好きです。その心地よさに浸るあまり、やる気が全く出ずにボケーっとしてしまうこともよくあります。

 

そうして、睡眠時間と朝の有効な時間を失った私は、心地よい朝の空気に包まれながら、だらだらと時間を過ごすことになるのです。

 

エンジンがかからない午前

ということで、朝の時間を台無しにした私は、バイトや学校に向かいます。休みの日であればそのまま二度寝コースなのですが、人生そんなにうまくはいきません。

 

ただ、バイト先の業務や、学校での勉強に取り組み始めた私は、ある困難に直面します。頭が動かないのです。そもそも、朝に早起きをした時点で睡眠時間を削っています。夜に早く寝ればいいのですが、私は寝起きがいい反面、寝つきが悪い体質です。そのため、早寝ができず、必然的に遅寝になってしまうのです。

 

睡眠不足の頭は、平常通りの回転数を出してくれません。エンジンがかからない車を必死に運転しているようなものです。

 

また、前夜奇跡的に早寝ができていても、早起きしたことの悪影響からは逃れられません。なんだか頭がぼーっとするのです。寝不足とはまた違う頭痛のようなものに襲われるのです。

 

そうして、回転数の低さや、頭痛をカフェインでごまかしながら、何とか午前中を乗り切ります。

 

エンジンの回転数は上がるが、空回りする午後

回転数の低さをカフェインでごまかしていた午前を終え、昼食をかきこみ、できるだけ長い時間仮眠をとったら、午後の時間を迎えることになります。

 

仮眠の後のアイスコーヒーほどおいしい飲み物はないと、私は思っています。グイっと飲み干して、頭の回転数を一気に向上させていきます。午前中には時間がかかっていたタスクが見る見るうちに進んでいきます。まるで人が変わったようです。

 

しかし、決して作業は正確ではありません。回転数が上がった反面、精度が落ちてしまっているのです。まるで、エンジンは動いているのに、どこか空回りをしてしまっているかのようです。

 

もしくは、ハンドルがとりにくくなってしまった感じでしょうか。午前中はエンジンが動かない車を何とか運転していたのが、午後は、エンジンは上手くかかるのにハンドルの効きが悪い車を運転しているような感覚です。

 

また、集中力の切れ目には相変わらず眠気が襲ってきます。それに耐えつつ、何とかタスクをこなしていく感じです。

 

オーバーヒートしてしまい、眠るにも眠れない夜

さて、何とか午後も乗り越え、帰宅時間になりました。家に帰り、早めに寝て明日に備えようと思います。しかし、そうは問屋が卸しません。午後に回転数を上げた脳みそは、ここにきてオーバーヒートを初めてしまいます。

 

午前中も午後も、睡眠不足のために読めなかった本が読めるようになったりします。また、眠気を感じるようになるまでユーチューブなどで時間をつぶそうとすると、「眠気を感じなくなってしまっている」ために、かえって寝つきの時間が遅くなります。

 

また、何もかも放りだして布団に入っても、寝付けないまま一時間、二時間と空虚な時間が流れます。結局、布団から飛び出して勉強やネットサーフィンをすることになります。しかし、オーバーヒートしているので、勉強の効率は決して良くはありません。

 

そんなこんなで、時間はどんどん過ぎてしまい、結局遅い時間に寝付くことになります。昼間にカフェインを控えていても同じことです。おそらく自律神経が、寝不足に耐えかねて一種のバグのような状態に陥っているのでしょう。

 

神経が立ってしまい、眠りに落ちることができなくなってしまうのです。

 

こうして、寝不足のまま、次の朝を迎えることになり、朝活は私の生活をむしばみつつけることになります。

 

 

夜型人間なら、朝活はやめた方がいい 

 ということで、ぐちぐちと書いてみました。

 

そもそも、朝型人間と夜型人間が存在することは、人間の進化の歴史とかかわっているそうです。

 

人間の祖先がサバンナで生きていたころ、全員が一度に早寝早起きをしてしまうと、夜行性の動物に襲われてしまいます。そのため、夜型の遺伝子を持った個体が夜遅くまで起きていて、警戒に当たっていたという事です。

 

この話は、ネットで読んだ記事なうえに、どこで読んだか失念してしまい、ソースはないのですが、とても理にかなった話だと思います。

 

 

そもそも、朝活の目的は「朝の時間を有効活用することを通じて、人生をより豊かにする」という事でしょう。朝の時間を有効活用できず、むしろ朝に起きることが悪影響を及ぼしてしまう私にとっては、朝活は「人生を貧しくする」行為にすぎません。

 

 

ということで、夜型の遺伝子を持った私は無理に朝活に取り組まないようにしようと思います。そうすることが、私の人生を豊かにすると考えるからです。

 

 

最後まで読んでいただき、ありがとうございました。カラマゾフでした。

 

「稼いでいるアピール」をするブロガーたちへの違和感

こんにちは、カラマーゾフです。

 

私はこうしてブログを書いています。今のところアフィリエイトアドセンス(カネになる広告宣伝)などは仕込んでいないので収益は発生していませんが、いつか収益化したいなと思っています。また、有名になってライターとしてお仕事を貰って、お金を稼げたらいいなぁと夢想したりもしています。

 

しかし、ブログを書くために情報を集めたり、実際に他の人が書いた記事を読むと、ある種の違和感を覚えることがあります。

 

ねずみ講臭い」という違和感です。

 

今回はそれについて書いていきます。

 

「稼げてます!」と声高に叫ぶブロガーの謎

ブロガーというか、アフィリエイトで稼ぐ人は「月何百万稼ぎました!!」とアピールする人が多いです。しかし、よく考えると、この「稼げてますアピール」は不可解なのです。

 

「金儲け」に成功している人は、基本的にその「金儲けの方法」を他人に教えることはありません。ライバルが増えて、自分の取り分が減ってしまうからです。

 

確かに、「お金を稼ぐ方法を教えてあげよう」という善意の人もいるかもしれません。それに、ブログは人気商売の側面があります。そのため、人気にならなければ稼げないという構造があり、「アピールをする」というのはある意味では重要でしょう。

 

また、「稼げました!」という報告の意味合いもあるのかもしれません。ブロガー仲間と互いの達成額を報告しあい、明日のモチベーションにつなげているのかもしれません。

 

もしかしたら、単純な自己顕示欲かもしれません。「俺は稼げているぞ!」とアピールして、他の人間に自分の凄さを認識させたいだけなのかもしれません。

 

しかし、それを差し引いても「稼げているアピール」をするブロガーは理解ができないのです。「ライバルを増やしかねない」というリスクを冒してまで、わざわざアピールすべき事柄ではない気がするのです。

 

 

「ブログを書くハウツー」ばかり書かれたブログへの違和感

また、もう一つ違和感を覚えることがあります。「ブログを書くためのハウツーばかりを書いているブログ」です。

 

アフィリエイトの申請方法

アドセンスに通るためのコツ

ワードプレスのやり方

 

などばかりを書いたブログを見て、「誰に向けた情報発信なんだろう」と思ってしまうのです。当然、発信対象はブログを書いている人に向けたものなのでしょうし、私も当然その手の情報にはお世話になるのですが、それにしても、「読者からその先」が見えないのです。

 

言ってみれば、「何のためにブログのハウツーを書いたのか」「読者にどのような”効用”をもたらすために記事を書いているのか」といったことの先がいまいち見えないのです。

 

その答えは

「ブログの書き方を調べてる人に、ブログのハウツーを教えることで、読者の問題を解決する。また、記事に埋め込まれたアフィリエイトアドセンスから広告収入を得る」

というもので間違いがないでしょう。

 

それが悪いこととは言いません。しかし、私は疑問に思うのです。

 

「その記事を書いた筆者、ブロガーの《色》はどこにあるのか?独自性は何なのか?そもそも、なんで同業他社であるブロガーをわざわざ助けるのか?広告収入以外に何か目的はないのか?」

 

といったことを、考えてしまうのです。

 

「ブロガー」が増えないとお金が入らない商売

「稼いでいるアピール」をする人や、「ブログのハウツーばかりを教えてくれる人」が単純に非難するつもりではありません。私だって、そのようなアピールにつられてブログを始めたクチですし、また、ハウツー情報には大いに助けられています。

 

しかし、「お金以外の目的」が見えにくいのが、疑問なのです。

 

ブログのハウツーを書くことで、確かに助けられるブロガーはいるでしょう。しかし、「ブログのハウツーを書くことで、広告収入を得る」というビジネスモデルは、ブロガーが増えなければ先細りになってしまいます。

 

まるで、「ブロガー志望の人間を増やすために『稼げてるアピール』をして、そうやって増えたブロガー志望の人間に『ブログのハウツー』をぶつけることで、広告収入を得る」というモデルが組み上げられていて、そのためだけに記事を書いているという印象を受けるのです。

 

「ブロガーが増えないとお金が入らない商売」が展開されている気がするのです。それはどことなくねずみ講に似ていると言われても仕方ないのではないでしょうか。

 

また、そのようなモデルで組み上げられた記事を読んでいても、「書いた人の顔」が見えないのです。読んでいて、とてもつまらないと感じてしまうのです。

 

もう少し、読んでいて「書いている人の顔」がわかるようなブログが増えてほしいと思っています。

 

 

最後まで読んでいただき、ありがとうございました。 カラマゾフでした。

 

 

能面の世界 (コロナ・ブックス)

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